もぐもぐと独逸

ならでは食と独逸物語。

002 コインランドリーの乱 後編

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 コインランドリーに戻ったときには、夕日がだいぶん傾いていた。この時間になるとさすがに肌寒い。半袖のナツさんも見るからに寒そうだったが、ご本人はいたって平気らしかった。

 

 6番機の洗濯物を、手早く引き出していく。

 

 ぼたぼたっと水が音を立ててしたたり落ちた。数滴のレベルではない。床に水たまりができた。

 

「脱水できてないじゃないか。」

 

 ナツさんの声は怒気を含んだ。長椅子に座って時間をつぶしている人たちが「ああ……」という顔で見物している。しばらく無言で立ち尽くしたが、彼は冷静である。やがて洗濯物をひっつかみ、近くの排水溝の上に持ってきた。

 

「何をするの。」

 

「絞るに決まってるじゃないか。」

 

 シャツだのタオルだの、力を込めて、精一杯、水気を落としていく。まさに人力。じゃあ、じゃあと水音がむなしく響いた。傍で見ていた私は、少しの間口を開けて見つめていたが、何もしない訳にもいかない。参戦しなければ。

 

「もっと力強く、固く絞るんだ!」

 

 鋭い指令が飛ぶ。私は万力のような力でジーンズを絞った。手が痛くなってくる。なんでこれを、よりによって今日、洗おうと思ったのか。重たいばかりじゃないか、脱水してないジーンズなんて。自分には腹が立ってならない。

 

 一枚一枚、ありったけの力をこめて絞る。果てがない。いったい何回繰り返せばいいのか。だが、水分が多く含まれていればそれだけ帰りの荷物が重くなる。できるだけ水を取り除かねばならない。スーパーで買った肉やら野菜やらもあるのだから。

 

 不機嫌に洗濯物を絞り終わり、家路についた。薄い群青色の空は、西の方だけほんのりとオレンジ色に染まっている。「ああ、くそ。」ナツさんが悪態をついている。水というのはこんなに重量があるのか。汗が流れていく。

  

 ふとトルコショップの店先にある陳列棚が目に入った。秋口なのに、赤い宝石のような苺がパックに入れられて並んでいる。1キロ3ユーロ、小粒だけれどよく熟れているようだった。

 

「ナツさん、ほら、苺がまだ売ってる。美味しそうよ。」

 

 ほんのひととき、持っている荷物の重さを忘れて、思わずナツさんに話しかけた。普段なら「旨そうだ。明日また買いに来ようか。」などとコメントが返ってくるところである。でも今日のナツさんは答えなかった。

 

「……。」

  

 彼はただ、無言で前を見つめていた。我が家のある方向である。

 

「……ナツさん?」

 

 もう一度声を掛けた。どうも、聞こえていないらしい。彼は分厚い小さな手で、腹のあたりをさすっている。二人の間に重たい沈黙が流れる。私はあらためてナツさんの服装を眺めた。シンプルだ。ジーンズに半袖しか着ていない。この夕冷えでおなかが冷えたとしてもおかしくはない。

 

「おなか…」

 

 ナツさんは絞り出すように言葉を吐いた。そして「ごめん。」と言うが早いか、持っていた洗濯物をぐいっと私の腕に押しつけ、自宅に向かって一目散に走り始めたのである。ものすごい速さだ。後ろ姿は瞬く間に小さくなり、やがてゴマ粒のような黒い点となって、ついに雑踏の中に消えた。

 

 私はただ、ナツさんの消えたほうを見つめていた。我に返ったのは、数十秒後のことである。水を含んだ大量の洗濯物とスーパーで買った肉やら野菜やらを抱えて、よっこらよっこら歩き始め、アパートになんとか到着したころにはとっぷりと日が暮れていた。

 

 エレベーターの故障を恨んでもどうにもならない。アパートの階段を引きずるように一段一段、荷物を運んだ。昨日までの私なら、仰天する重量である。そうか、引け目を感じるも何も、そうしないと埒があかないから運ぶのか。追い詰められて運ぶんだ、筋力はこうした経験の積み重ねの上についていくものなのだ、と妙に得心した。

 

 ようやく5階に着いて、ドアノブに手をかける。力はもうほとんど残っていない。が、ドアは開かなかった。ノックをしてみた。それでも玄関は無言である。鍵は、ナツさんが持っている。奥のほうからトイレの水を流す音が聞こえていた。

 

 おなかが痛いんだ。仕方ないじゃないか。そう思って少し待ったものの、そのうち我慢できずにインターフォンを何度も押し始めた。ピンポン、ピンポーン! と我が家のベルがなる。それでもトイレの水音は消えなかった。そのときである。廊下の電気がぱっと消えた。ドイツでは廊下の電灯はいつまでもついてはいてくれない。暗闇が私を襲う。怖い。でも今、ナツさんには余裕がない。

 

「ナツさん、お願い開けて! もう嫌よう!」

 

 悲痛な声がご近所中に響くのを自覚しながら、私は叫び声をあげた。数分後、崩れ落ちる私の前に現れたのはトランクス姿のナツさんである。コインランドリーの6番は、その後二度と使わなかった。